昭和の店に惹かれる理由
2,090円(税190円)
「サービス」では永久にたどりつかない知
このコロナ騒ぎで、自粛とか三密などという言葉が流行り、お店として開いているところは大打撃を受けている。ドクスメでも全国から来てくださった方が大勢いらして、そういう方々の顔もしばらく見ていない。「これからどうしたらいいんだろう?」 そう悩んでいる方も多いだろうと思う。
そんな中、ぼくは所謂「昭和なお店」を見つけては入るようにしていた。特に飲食のお店だが、お父さんとお母さんがやっているようなお店に入る。何軒かまわっているとそのうち不思議なことに気付いた。そういったお店は、このコロナ騒ぎとはまったく無関係のように繁盛しているのである。大阪にある「スナックK」というお店のお母さんは、常連客に電話して呼び出して(半分脅し?笑)、「何してんの?早く呑みにきなさいよ!」と連絡していたらしい。でも、お客の方もその呼びかけが嬉しいのだ。あるラーメン屋さんは、若者であふれていた。見てみると、若い子には特大の大盛りで、そこに効率とか「儲け」なんかの思惑がまったく感じられない。
それらを観察していると、今、世の中の商売の流れは、効率化の名の元に、自動化やペイペイだのポイポイなどという方向に無理やり”流されて”いるようだ。
しかし、しかしだ、昭和を感じるお店にはそんなよくわからない、誰かが考え付いたような”仕組み”には無縁のようであった。
下記に「まえがき」の一部をご紹介しよう。
『私の母や祖母の世代にとって、「撫でる」と「拭く」とでは明確に違っていた。
昭和四十〜五十年代。うちでは、食事の前に食卓を拭くのは子どもの係だった。固く絞った布巾を当然のように手渡され、家族六人が囲む大きくて重い座卓を拭く。けやきの、天板の縁に沿って溝が彫られたデザインだった。
ぼんやり手だけ動かしていたりすると、台所から「撫でるのではなく、ちゃんと拭いてちょうだい」という祖母の声がよく飛んできた。で、だいたいは、溝の中もお願いねと念を押されるのだ。
大人になった今、彼女たちの真意をあらためて分析してみると、「拭く」とは綺麗にしよう、清潔にしようという意識とセットでなければならないもの。単に布巾を動かすだけなら、それは「拭く」にはならないのだ。
戦争に負けても、石油や土地がなくても、メイド・イン・ジャパンのものづくりが世界と渡り合っていけたのは、高い精度を真面目に求める心。四角いところを四角く拭くような「きちんと」が、フォーマットに組み込まれている人々の仕事だからではなかったか。
けれど、もはやそれも幻想になりつつある。中略 何年か前に福岡で取材した、老舗のモツ鍋屋を思い出した。
今では業者で処理済みのモツをそのまま使う店も多い中、その店は新鮮なモツを買い、自分たちでさらに三度徹底的に洗う。なぜそこまでするのですか、と訊きながら、臭みが取れるという答えを半分想定していた私に、女将はあたりまえのように言った。「人さまの口に入るものだからですよ」 彼女は戦前生まれだった。
戦争中、町から食べものがなくなり、ついに肉をさばいた後に残る「放る(捨てる)もん」だった内臓が回ってきた。彼女曰く、だから「ホルモン」。まだ温かい胃や腸を、子どもだった彼女は流水で洗うのだが、とにかく時間がかかったそうだ。
何十年経っても忘れられない。消化物のこびりついた内臓がどんなに汚く、きつい臭いか。それを安全においしく食べられるようにするためには、その前に、人の口に入れられるものにするには、「きちんと」洗わなければならない。
結局「臭みを取る」という目的には変わりないけれど、その根底には何があるのか。それを知る人の仕事は違う。
今、私たちがカット済みの野菜や切り身の魚でどんどんリアルから遠ざかっていくことは、根底にある何かを失うことかもしれないと思った。
人の手で洗う、磨く。それは除菌や消毒とは別の清潔感である。すべての菌を悪として、強い兵器で悪を滅ぼすという征服の発想ではなく、本来の姿に戻してやる、大切に扱うという共生の在り方。万物への敬意のようなものを感じるのだ。
今、日本人は除菌に熱心だが、そこに「きちんと」の思想は見当たらない。祖父母の世代、両親の世代がいなくなったらフェードアウトしてしまいそうな絶滅危惧のメンタリティである。
私はいつからか、気づけば昭和の店に足を運ぶようになっていた。そこへ答えを求めようと意識したわけではなくて、本当に気がつけば、そこが気持ちよかったから。中略 情報じゃない、ランキングじゃない、わかりやすさもなければ合理的でもなく、じつはそんな自由でもない。不思議な価値観。なのになぜだろう、私たちは昭和に惹かれている。そう、猛烈に惹かれているのだ。』
ドクスメでも昔っから、「売る側と買う側を分けない」という思いでやってきた。だから時にはお客さんを叱るし、いっしょに酒を呑むしカラオケではしゃいできた。 恋の悩みも病で死に苦しむ人とも共に悩んだ。
この本には、普段、表に出ることのない10軒の名店の人々。「サービス」では永久にたどりつかない知恵が書かれている。
どこの誰かかわかんない人たちが推し進めようとしている「これからの商売の在り方」では、ちょっとは良いのだろうけど、何十年も続く商売になるはずもないと断言しておきたい。
この本を読んでみれば、それが明らかなことだ確信できる。
さあ!先に進もう!!!
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このコロナ騒ぎで、自粛とか三密などという言葉が流行り、お店として開いているところは大打撃を受けている。ドクスメでも全国から来てくださった方が大勢いらして、そういう方々の顔もしばらく見ていない。「これからどうしたらいいんだろう?」 そう悩んでいる方も多いだろうと思う。
そんな中、ぼくは所謂「昭和なお店」を見つけては入るようにしていた。特に飲食のお店だが、お父さんとお母さんがやっているようなお店に入る。何軒かまわっているとそのうち不思議なことに気付いた。そういったお店は、このコロナ騒ぎとはまったく無関係のように繁盛しているのである。大阪にある「スナックK」というお店のお母さんは、常連客に電話して呼び出して(半分脅し?笑)、「何してんの?早く呑みにきなさいよ!」と連絡していたらしい。でも、お客の方もその呼びかけが嬉しいのだ。あるラーメン屋さんは、若者であふれていた。見てみると、若い子には特大の大盛りで、そこに効率とか「儲け」なんかの思惑がまったく感じられない。
それらを観察していると、今、世の中の商売の流れは、効率化の名の元に、自動化やペイペイだのポイポイなどという方向に無理やり”流されて”いるようだ。
しかし、しかしだ、昭和を感じるお店にはそんなよくわからない、誰かが考え付いたような”仕組み”には無縁のようであった。
下記に「まえがき」の一部をご紹介しよう。
『私の母や祖母の世代にとって、「撫でる」と「拭く」とでは明確に違っていた。
昭和四十〜五十年代。うちでは、食事の前に食卓を拭くのは子どもの係だった。固く絞った布巾を当然のように手渡され、家族六人が囲む大きくて重い座卓を拭く。けやきの、天板の縁に沿って溝が彫られたデザインだった。
ぼんやり手だけ動かしていたりすると、台所から「撫でるのではなく、ちゃんと拭いてちょうだい」という祖母の声がよく飛んできた。で、だいたいは、溝の中もお願いねと念を押されるのだ。
大人になった今、彼女たちの真意をあらためて分析してみると、「拭く」とは綺麗にしよう、清潔にしようという意識とセットでなければならないもの。単に布巾を動かすだけなら、それは「拭く」にはならないのだ。
戦争に負けても、石油や土地がなくても、メイド・イン・ジャパンのものづくりが世界と渡り合っていけたのは、高い精度を真面目に求める心。四角いところを四角く拭くような「きちんと」が、フォーマットに組み込まれている人々の仕事だからではなかったか。
けれど、もはやそれも幻想になりつつある。中略 何年か前に福岡で取材した、老舗のモツ鍋屋を思い出した。
今では業者で処理済みのモツをそのまま使う店も多い中、その店は新鮮なモツを買い、自分たちでさらに三度徹底的に洗う。なぜそこまでするのですか、と訊きながら、臭みが取れるという答えを半分想定していた私に、女将はあたりまえのように言った。「人さまの口に入るものだからですよ」 彼女は戦前生まれだった。
戦争中、町から食べものがなくなり、ついに肉をさばいた後に残る「放る(捨てる)もん」だった内臓が回ってきた。彼女曰く、だから「ホルモン」。まだ温かい胃や腸を、子どもだった彼女は流水で洗うのだが、とにかく時間がかかったそうだ。
何十年経っても忘れられない。消化物のこびりついた内臓がどんなに汚く、きつい臭いか。それを安全においしく食べられるようにするためには、その前に、人の口に入れられるものにするには、「きちんと」洗わなければならない。
結局「臭みを取る」という目的には変わりないけれど、その根底には何があるのか。それを知る人の仕事は違う。
今、私たちがカット済みの野菜や切り身の魚でどんどんリアルから遠ざかっていくことは、根底にある何かを失うことかもしれないと思った。
人の手で洗う、磨く。それは除菌や消毒とは別の清潔感である。すべての菌を悪として、強い兵器で悪を滅ぼすという征服の発想ではなく、本来の姿に戻してやる、大切に扱うという共生の在り方。万物への敬意のようなものを感じるのだ。
今、日本人は除菌に熱心だが、そこに「きちんと」の思想は見当たらない。祖父母の世代、両親の世代がいなくなったらフェードアウトしてしまいそうな絶滅危惧のメンタリティである。
私はいつからか、気づけば昭和の店に足を運ぶようになっていた。そこへ答えを求めようと意識したわけではなくて、本当に気がつけば、そこが気持ちよかったから。中略 情報じゃない、ランキングじゃない、わかりやすさもなければ合理的でもなく、じつはそんな自由でもない。不思議な価値観。なのになぜだろう、私たちは昭和に惹かれている。そう、猛烈に惹かれているのだ。』
ドクスメでも昔っから、「売る側と買う側を分けない」という思いでやってきた。だから時にはお客さんを叱るし、いっしょに酒を呑むしカラオケではしゃいできた。 恋の悩みも病で死に苦しむ人とも共に悩んだ。
この本には、普段、表に出ることのない10軒の名店の人々。「サービス」では永久にたどりつかない知恵が書かれている。
どこの誰かかわかんない人たちが推し進めようとしている「これからの商売の在り方」では、ちょっとは良いのだろうけど、何十年も続く商売になるはずもないと断言しておきたい。
この本を読んでみれば、それが明らかなことだ確信できる。
さあ!先に進もう!!!