健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
1,980円(税180円)
現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。
この本は、素晴らしい!!騒がれる新型コロナ。
私たちは、かつて歴史にいくつも例があるように、国家の何かしらの意図、そして煽るマスコミ。これらによって、私たちの社会はどんどん壊されてきた。今回もそんな”コロナ騒ぎ”だったのではないだろうか。この本の著者は、その辺りを冷静に検証し、読む者を我に返してくれる。本文をご紹介しよう。『健康という概念が輸入されてくる前の日本では、養生という概念が支配的であった。養生とは「生きている間に何を為すか」についての概念であり、良く生きて良く死ぬという目的のための手段として養生訓が存在した。
現代の健康はそうではない。養生訓で言うところの「良く生きる」ために健康を求めている人は、いったいどこにどれだけいるだろう。ましてや「良く死ぬ」ための健康となると、いわゆる「ピンピンコロリ」以上の意味や意義を見出せる人はほとんどいないのではないだろうか。』
上記の記述をよーく考えてみたい。 このコロナ騒ぎについても、 よーく考えてみたい。 確かな見識をもてば、この騒ぎが透けているのが よく理会できるはずだ。自粛? 馬鹿げた話じゃないか。ニヤリ 「良く死ぬ」ための健康観、 私たちはもう一度あらためて考え直すいい機会だ。
著者「まえがき」からもこの本の素晴らしさが想像できるだろう。
『現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。 生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、 前時代の不自由から解放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。 メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、 令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。
社会の進歩により当然のものとなった通念は私たちに「自由」を与えた一方で、 個人の認識や行動を紋切型にはめこみ、「束縛」をもたらしているのではないだろうか。 あらゆる領域における資本主義・個人主義・社会契約思想の浸透とともにうつろう秩序の軌跡と、私たちの背負う課題を描き出す。 かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、 その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。
昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、 羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか? 清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、 そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、 厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか』
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この本は、素晴らしい!!騒がれる新型コロナ。
私たちは、かつて歴史にいくつも例があるように、国家の何かしらの意図、そして煽るマスコミ。これらによって、私たちの社会はどんどん壊されてきた。今回もそんな”コロナ騒ぎ”だったのではないだろうか。この本の著者は、その辺りを冷静に検証し、読む者を我に返してくれる。本文をご紹介しよう。『健康という概念が輸入されてくる前の日本では、養生という概念が支配的であった。養生とは「生きている間に何を為すか」についての概念であり、良く生きて良く死ぬという目的のための手段として養生訓が存在した。
現代の健康はそうではない。養生訓で言うところの「良く生きる」ために健康を求めている人は、いったいどこにどれだけいるだろう。ましてや「良く死ぬ」ための健康となると、いわゆる「ピンピンコロリ」以上の意味や意義を見出せる人はほとんどいないのではないだろうか。』
上記の記述をよーく考えてみたい。 このコロナ騒ぎについても、 よーく考えてみたい。 確かな見識をもてば、この騒ぎが透けているのが よく理会できるはずだ。自粛? 馬鹿げた話じゃないか。ニヤリ 「良く死ぬ」ための健康観、 私たちはもう一度あらためて考え直すいい機会だ。
著者「まえがき」からもこの本の素晴らしさが想像できるだろう。
『現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。 生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、 前時代の不自由から解放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。 メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、 令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。
社会の進歩により当然のものとなった通念は私たちに「自由」を与えた一方で、 個人の認識や行動を紋切型にはめこみ、「束縛」をもたらしているのではないだろうか。 あらゆる領域における資本主義・個人主義・社会契約思想の浸透とともにうつろう秩序の軌跡と、私たちの背負う課題を描き出す。 かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、 その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。
昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、 羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか? 清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、 そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、 厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか』